青函トンネルを通り抜けるJR北海道 スーパー白鳥 789系からの景色を映し続けた動画です。
真っ暗なトンネルかと思いきや、青と緑のライト、また間に海底駅が二つ。

静かにレールの上を走る音、風を切る音、時々ホーンが聞こえてきます。
まるで自分が電車に乗って旅をしているかのようです。
 
オチも何もなく、ただレールの上を走るだけの動画なのですが、
外国人の方にとっては何だか和むようで、海外からも賞賛のコメントがあがっていました。


動画  携帯用動画



以下、この動画に対する海外の反応


■ すっげー!このトンネルマジでかっこいい。このビデオも同じくらいかっこいい!シェアしてくれてありがとう! +2 国籍不明

 ■ re:ビデオを見てくれてありがとう。このトンネルは重要な出来事だったんですよ。北海道を旅したいなぁ。あなたもぜひいつかこの電車に乗るべきだと思いますよ。 投稿者 (日本)

■ いやーいいビデオ作ったなぁ よくやった! ルーマニア

 ■ re:ありがとう、このビデオをとるのはとっても楽しかったです! 投稿者 (日本)

■ 日本は、絶滅の危機に瀕するクジラを捕獲するのを今すぐ止めるべき!私たちオーストラリア人があなたがたを非難する理由です! オーストラリア
(スパム扱いされ、非表示になっていました。2年前のコメントですが、オーストラリアでもその2年間の間に世論も変化してきました。
 現在では、度を過ぎたシーシェパードに対する認識が変わりつつある事を補足として付け加えておきます)

■ おいおい、このビデオは電車についてだろ?クジラの捕獲については何の関係もないし、第一それってこの国の話なのか?そういうコメントはもっとそれに関係するビデオにするべきだろうと思うよ。真面目な話するけど、オーストラリア人全員が日本を嫌ってると思うのかい?明らかに違うだろ、だってスキーをしに毎年何百人ものオーストラリア人が北海道にやってくるんだからさ! カナダ


■ 画質も編集もすごく良い出来だね、ありがとう!^^ イギリス

■ 息をのむような感じ。ホーン最高!大好き!素晴らしいビデオですね。一緒に電車に乗せてくれてありがとう。五つ星! アメリカ 

 ■ re:スケジュールは厳しかったけれど、なんとか撮影できてしかも楽しかったです。コメントありがとうございます。 投稿者 (日本)

■ いい乗車をしたね、五つ星あげちゃうっ! アメリカ

 ■ re:ありがとう。僕もこれを撮った時はすごく興奮していました。 投稿者 (日本)

■ か、かっこいい。+2 イギリス  

■  誰かぁ、、英語喋れる人、いませんかぁ? イギリス

■ 最後の太陽の差し込み方がすごく好きだなぁ。あれはワザとやったんでしょ?わかってるなぁ。 アメリカ

 ■ re:あれはすごく景色のいい朝でした。ああ、また乗りたい。 投稿者 (日本)

■ このトンネルは青函トンネルといって、世界の中でも一番長いトンネルなんですよ。 日本    

■ いいねー 日本 

■ 電車? 電車! 電車ぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!! +2 アメリカ





本当にオチも何もない動画なのですが、
海外の鉄道好きな方々のコメントで盛り上がっていました。
日本語タイトルの日本の動画を、どこで見つけて集まってくるのでしょう?(笑)



この動画で映されている青函トンネル(せいかんトンネル) は、
知っての通り、交通機関用のトンネルとしては世界一の長さを誇りますが、
建設中のゴッタルドベーストンネル (スイス) が開業すると、世界一の座を明け渡す事になるようです。
日進月歩のこの時代に25年間も世界一だった事はむしろ光栄であると言えるでしょう。


ゴッタルドベーストンネルもてこずりながら開通 (開業は2017年予定) したわけですが、
青函トンネルに至っては大変な苦労を重ね、多くの殉職者を出し、ようやく開通した過去があります。

ゴッタルドベーストンネルは山の地下を掘りましたが、
対する青函トンネルは水分も多く危険な海底を掘削するため、
他のトンネルの何倍も高度な技術が必要だったのです。


今から何十年も前に偉業を成し遂げた日本人たち。
今日はそんな青函トンネルについて、スポットを当ててゆきたいと思います。


大きな地図で見る

青函トンネルは今から52年前の1961年(昭和36年)に着工し、
1988年(昭和63年)に完成しました。
今でこそシールドマシンを含む様々な機械類が作られていますが、
当時は機械や装備も非常に限られ、また、問題も多く、
作業員の方々は大変な苦労を強いられました。


当時はシールドマシンによる掘削はまだ一般的ではなく、
掘削機に人間が乗り込み操作すると共に、その他の多くの作業は人力が中心の作業でした。
(現在ではセメント1袋25kgですが、おそらく当時は40kg50kgでした)

海底トンネルというだけあって、湿度は常に100%近くあり、
温度もかなり高く、長靴の中に汗が溜まってしまうほどだったと、当時の作業員は言います。
当然の事ながら、現場でのクーラーなど一般的ではなかった時代です。



劣悪な作業環境は作業員たちの体力を奪い、
単純につまずいてけがをする者や、暑さで倒れる者なども多く、
多くのけが人が続出しました。

そんな中、1976年5月6日には毎分10トン~85トン(資料により差があります)とも言われる
大規模出水 (海水がトンネル内に入ってくること) が起きました。

そういった事態に対応するために、当然ポンプが備えられていましたが、
この時の水の量はポンプの能力を大きく超えるものだったため、
トンネル内に海水がどんどん入って来てしまいました。


ポンプ室が水没してしまうと、
トンネルが入口まですべて海水で満たされてしまい取り返しが付かなくなります。
この時は木で簡易いかだを急遽組み上げ、それに排水ポンプを乗せて引っ張っていきました。
いつ爆発的に水量が増すかも分からない中、
真っ暗な水の中に自分から飛び込んだ男たちがいました。

昼夜を問わず戦い続けた90時間後、命がけで搬入したポンプがうなりを上げ始め、
トンネル内に溜まった海水は一気に汲みだされました。
男たちの情熱と使命感により、危機を脱する事ができたんですね。




この大規模出水以外にも出水事故はたびたび起きました。
トンネルは下り勾配なので、トンネルの先端に海水が溜まるわけですが、
ポンプ室や配電設備が水没しないよう、少しでも時間を稼ぐため、
作業員たちは必至でセメント袋を積み上げたり、
簡易水門を閉鎖しながらトンネル内を後退していきました。

海水の勢いが勝つか、閉鎖作業が勝つか、ぎりぎりのところでした。
結局、出水箇所から1.5kmも後退してきたのでした。

一晩明けると、崩れた土砂で海水の勢いは衰え、
何とか急場を凌ぎましたが、その後海水を完全に止めるためにはかなりの時間がかかり、
その間も作業員たちにとって不眠不休で海水との戦いが続きました。



地盤の違いによる前回と違う出水事故をたくさん経験し、
そのたびに新しい工法が開発され、
困難を乗り越えるたびに技術力は向上し、
結果として青函トンネル工事で掘削技術は飛躍的に高まることとなりました。




しかし、倒れた搬送車に挟まれたり、パイプが破裂したり、
危険な海底トンネルの掘削作業では、多くの殉職者を出しました。

冬になると毎日のように台風なみの風が吹き続ける辺境の地、
竜飛には当時、葬儀を執り行うお寺は存在せず、
作業者の方々は自らの手で棺を作り、
丘の上に建てた資材置き場で精いっぱいの葬儀を行なったとのことです。

けれど、彼らは諦めなかったんです。
殉職していった者たちに 「絶対にトンネルを完成させる」、と誓いました。

ここでも協力し合い、懸命に努力して乗り越えてゆく日本人の姿がありました。




青函トンネル構想は戦前から存在し、昭和28年には海底調査も始まりましたが、
このトンネルが掘られるほど世論を動かした大きなきっかけというのが、
洞爺丸(とうやまる)の海難事故でした。
昭和20年代まで、洞爺丸の事故以前にも多数の海難事故が起きていましたが、
世論が大きく変わったのは洞爺丸(とうやまる)の海難事故からであったと専門家は言います。



時は1954年9月 (昭和29年9月)
この年の15号台風は、非常に大型でした。
最初は九州に上陸して被害をあたえ、北上して日本海に抜けました。
そして、そのまま北北東に進んで、いずれ消えて無くなるものと予想されていました。
ところが、その後15号は、日本海でエネルギーを増加させて津軽海峡へと進み、
函館を直撃する進路をとったのです。

この時の強さは凄まじく、函館に直撃した時は風速50m/毎秒もの風が吹き荒れました。
夕方5時頃になると風も弱まり、夕焼けも見えたので安心して洞爺丸は出港しました。

しかし、これが大誤算で、この後猛烈な時化となり、洞爺丸は港へ引き返したのですが、
時すでに遅く、港へ接岸できないほどの暴風雨になっていました。
仕方なく洞爺丸は西のほうへ避難するのですが、
船の甲板高よりはるかに高い高波が押し寄せ、ボイラー室が浸水、
エンジンが止まってしまいました。

船は横波に弱いので、
波が大きな時は、船首を風上に向けるのが基本ですが、
エンジンが止まってしまったらそれもできません。
横からの波風を受けて洞爺丸はなす術もなく転覆してしまいます。

海難事故としてはタイタニックに次ぐ2番目の大きさとなる
1155名という犠牲者を出してしまいました。


この大惨事は、戦後の復興のきざしが見られるようになった日本全国に
非常に大きなショックをあたえ、結果として
青函トンネルを実現する方向に大きく世論を動かしました。




この海難事故をうけ、気象衛星の必要性が大きく議論される事にもなりました。

この記事でも書いた通り、日本の気象衛星は1977年に打ち上げられており、
それよりも23年も前の日本には気象衛星がなく、
台風の進路を予想できなかった事もこの事故の大きな要因でした。

このように度重なる事故を経験し、困難を乗り越えてきたからこそ、
優れた気象衛星を運用し、
世界一の技術もたくさん保有する、現在のような日本があるんですね。

先人たちの多くの犠牲の上に開発されてきた技術のおかげで、
今日も私たち国民が守られているんです。



青函トンネル工事の記録


動画では開通した瞬間に両側から掘り進めてきた男たちが抱き合い、喜んでいる姿も見れます。
また、トンネルが崩れてしまった時もデータを計測しておいたおかげで
次の補強方法の開発につなげるなど、転んでもただでは起きない意地が見てとれます。



現在、世界中で日本のシールドマシン(トンネルを掘る機械)が活躍するようになったのも、
今から何十年も前に開通した青函トンネルの世界一というイメージや影響もあると言えるでしょう。

世界中が注目する新幹線を含む日本の鉄道ですが、トンネルを含む基幹技術のうち、
どれか一つが欠けても実現できないでしょう。
トンネルや橋の建設技術が相互に連携し合い、全体的に高度に発達してきたからこそ、
鉄道などもその力を発揮できるのだと思います。


しかし、当時の作業者から見ると、今で言えば何もない外国へ工事に行くようなものでしたから、
作業者たちは正直、不安でいっぱいだったようです。
そんな中、現場ではトンネル工事前から既に工事を切望する住民たちがおり、
作業員が来るとの事で雪の降る中1000人以上も集まって歓迎してくれました。
その声を聞いた作業員たちは大きく励まされたのだと言います。



今でも北海道と言えば外地であり、本州は内地と呼ばれていますが、
青函トンネルのない当時は本州との所得差は激しく、
連絡船を使った物品の輸送力にも限度があり、
新聞などが遅れるのは当たり前だったようです。

北海道での産業と言えば農業でしたので、
新鮮な野菜類を素早く首都圏に輸送できるようになったことなど、
青函トンネルが開通した事による経済効果は非常に大きいようです。


そして、50年以上経過した現在でも、
度重なる地震などに負けず、本州と北海道を、人と人とを結ぶ世界一のトンネルとして、
見事に機能しているんですね。

竜飛岬灯台ライブカメラ(灯台からの映像が見れます)
青函トンネル記念館
JR北海道函館支社青函トンネル

しかも、この青函トンネルは最初から新幹線が通れるように作られた点も見逃せません。
(2015年開業予定)


(2013.04.21. 追記)
動画ありました ↓
コメント欄でいろいろ教えて下さった皆さまありがとうございます!

開通時、喜ぶ作業員たちの中、殉職していった仲間たちの遺影を持って映っている方もおり、
あらためて大変な工事であった事を思い知らされます。



最近完成したスカイツリーの634mにも驚きましたが、
50年以上前に海面下240mのトンネルを掘っていたなんて・・・。


何十年も前に困難を乗り越え、偉大なものを作り上げた先人たち。
そこには男たちの情熱と、
日本人技術者たちの熱い戦いが隠されていました。


偉大な先人たちに感謝するとともに、
彼らが命がけで残して下さった日本という国を、
私たちもいつまでも守ってゆきたいものです。



トンネル工事による殉職者34名の碑は竜飛岬に建っているようです。
この偉業はいつまでも忘れません。